読む価値のない文献の見分け方

 読む必要のない文献は、始めの数行を読めば、簡単に見分けられる。たとえば、「私はこの問題の専門家ではないが、編集部からのたっての要請であるから、浅学菲才を顧みず筆をとった」という類の文章が冒頭にあれば、確実に読む価値がない。これは、読み手にとっては何の価値もない文章である。それを、もっとも重要な場所である書き出しに置くのは、それ以降も読む価値がないことの証拠だ。
 (中略)
 読む価値のない文献をすばやく見分けるもう一つの方法は、文体に注意することだ。受け身の文章が多いのは、駄目である。「……といわれている」「……と考えられる」という類の文章だ。これらは、内容に関して責任を取りたくないという潜在願望の現れだからだ。これに対して、事実と意見を峻別し、後者について、「私は……と考える」と責任の所在を明記してある文章は、読む価値がある。
「虎の威を借る狐」文も、要注意だ。「ケインズもいうように」という類である。これは、著者の自信のなさを表している。自説では心もとないから、権威に応援を頼んでいるのである。これが昂じると、「周知のように」となる。ひどいのは、「……は万人の認めるところであろう」となる。説得的な理由を示せないから、反対者を社会の異端児にしようという魂胆だ。

『続「超」整理法・時間編』(野口悠紀雄 中公新書)p.206〜207

 これですべて見分けられるとは思わないが、なるほど参考になる意見だと思う。逆に自分が文章を書くときにも、無用な謙遜をしていないか、「といわれている」とか「考えられる」を濫用していないか。あるいは「周知のように」とか「万人の認めるところであろう」なんて使っていないか、気にした方がよいかもしれない。