ダ・ヴィンチの手帳

 あの本のことをおもいだして、書庫をさがしてみたが、いつのまにかなくしてしまったらしく、みあたらなかった。メレジュコーフスキイの『神々の復活』という本である。
 わたしがこの本をよんだのは、高等学校の学生のときで、もう二〇年以上もまえのことである。あるいは、いまでも新版がでているかもしれないとおもって、岩波文庫の目録をめくってみたが、絶版になったのか、でていなかった。むかしのは、米川正夫さんの訳で、四冊本だった。
 それは、レオナルド・ダ・ヴィンチを主人公にした長編小説である。ひじょうな感動をもってよみおえたことを、いまでもおぼえているが、なにぶんむかしのことだから、具体的な内容については、おおかたわすれてしまった。
 そのなかで、ただひとつだけ、たいへん鮮明におぼえていることがある。それは、ダ・ヴィンチの手帳のことである。もっと正確にいえば、じつはその手帳の話がつなぎになって、こんなむかしによんだ本のことが、いまでもわたしの記憶の中に、ときどきよみがえってくるのである。作者のメレジュコーフスキイが、どの程度に史実にもとづいてこの小説をかいたのか、わたしはしらない。しかし、とにかわたしは、この本をなかだちにして、レオナルド・ダ・ヴィンチから「手帳」をもらったのである。
 『神々の復活』にでてくるダ・ヴィンチは、もちろん、よくしられているとおりの万能の天才である。しかし、この天才には奇妙なくせがあった。ポケットに手帳をもっていて、なんでもかでも、やたらにそれにかきこむのである。町をあるいていて、であった人の顔の特徴を書き込む。お弟子がかいものにいってかえってくると、いちいち品物の値段をきいて、かきこむ。まったく、なんの役にもたちそうもないことまで、こくめいにかきこむのである。
 高校生であったわたしには、この偉大な天才の全容は、とうてい理解できなかったけれど、かれの精神の偉大さと、かれがその手帳になんでもかでもかきこむこととのあいだには、たしかに関係があると、たしは理解したのである。それでわたしは、ダ・ヴィンチの偉大なる精神にみずからをちかづけるために、わたしもまた手帳をつけることにした。
 わたしはこうして、手帳をつけるという習慣を獲得し、その習慣は、二十数年後のいまでも、きえることなくつづいている。

『知的生産の技術』(梅棹忠夫 岩波新書)p.21〜22

知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)