石田衣良の日記

 大学を一年留年して卒業しても、就職もせずにフリーターの暮らしは続いた。その時期にぼくは心理学の自己分析の方法にならって、詳細な日記をつけ始めた。書き始めた当初は、自分から距離をとりたくて、自分のことを「彼」としか書けなかった。彼は散歩をした。彼はヘッセの『シッダールタ』を読んだ。彼はアルバイトの週給をもらった。
 自分がほんとうに望むものはなにか。なにが必要で、なにが必要でないか。社会によってすりこまれた価値観と、自分の価値観のずれはどこにあるのか。人生の目的とはなにか。毎日A4のノートにびっしりと、ときには数十ページにわたって、ねばりづよく日記を書き続けていく。二ヶ月、半年とたつうちに、彼は「君」になり、一年をすぎるころにはついに「ぼく」と一人称をつかえるようになった。
 自分との距離感をつかみ直して、初めて「ぼく」と書けたとき。そのときようやくぼくは危険な時期をのり切ったのだと今では思う。その後、広告制作プロダクションに職を見つけたのだが、コピーライターとして仕事をするうえで、当時毎日文章を書いた経験がとても役に立ったのである。

『目覚めよと彼の呼ぶ声がする』(石田衣良 文藝春秋)p.165-166